東京大学 大学院人文社会系研究科 教授 一ノ瀬 正樹

「いのち」あるものと、そうでないものとの区別は、ほぼ直観的にできます。そして、「いのち」あるものの感じる痛みや苦痛も、ほぼ直観的に見て取ることができます。そして、他者の痛みや苦痛は、自分の痛みや苦痛ではないとしても、やはり痛みとなって感じられます。矢を刺されたカモを見て、痛みを感じない人がいるでしょうか。「個人」という言葉がありますが、実はそれはある種の虚構で、実は、私たち「いのち」あるものは、みな互いにつながり合っています。共鳴し合っています。完全に独立した個人なるものは実は不可能なのです。私たちは両親から生まれてきました。両親と結び合ってます。同じことが、程度の多寡はあれ、すべての「いのち」に関して言えるでしょう。だから、矢を刺されたカモの苦痛を、私たちは自らの痛みとして表象するのです。そして、私たちは本能的に痛みを避けます。「いのち」あるものは、痛みを避ける本性を持っていること。これは、あらゆる道徳の基本です。この道徳の基本は、「自分がされたくないことは他者にもするな」という言葉に集約されます。言い方を換えれば、「自分はこれこれのことをされたくないが、自分が他者に対して同じことをするのはよい」という判断は決してしてはならない、ということです。倫理学では、そのように自分と他者とを差別する判断をしてはならないということを「普遍化可能性」と言います。道徳は、自分だけ特別、というものであってはならず、主人公が誰でも当てはまるような、普遍的なものでなければならない、ということです。

こうした「いのち」ある主人公は、人間に限りません。人間以外の動物や植物にも当てはまります。こうして、人間を中心に当初構想された道徳や倫理は、動物にも適用されるようになりました。「動物の権利」論や「動物解放」論です。けれども、こうした動物倫理の議論は、完全にかつ直ちに実行可能な議論であると捉えた途端、明らかな矛盾を呼び込みます(というより、倫理一般に関してそういえるかもしれません)。すべての「いのち」に権利を認め、すべてを尊重する、ということは実行不可能だからです。私たちは、知らずに蟻を踏んでいるかもしれず、気づかずに皮革製品を使用してしまっているかもしれません。思いもよらずに、動物実験を経た製品の恩恵を受けているかもしれません。それに、人間以外の動物の権利を尊重しようということを性急に実現しようとすると、別の面での弊害が発生しかねません。たとえば、畜産業を経営する人たち(彼らも動物の虐待を肯定などまったくしていません)に、突然過剰な負担を強いることになりうるかもしれません。加えて、かりに動物の権利を認めることに一定程度成功したとしても、今度は、動物と人間の生活との競合も発生しうるでしょう。近頃の猿害や鹿害を想起してみてください。したがって、「いのち」をめぐる普遍化可能な倫理の構築は、ゆっくりと、長い年月を掛けて(私は500年ぐらいは掛かるとみています)少しずつ、試行錯誤を重ねながら前進させていくしかないものであると言えます。

けれども、だからといって、どうせすぐには変わらない、といって手をこまねいていていいものではありません。さしあたり実行できること、実行すべきことは、いくらでもあります。母豚の「妊娠ストール」の問題は、その最たる事例です。狭い空間に閉じ込められて、身動きもできず、何度も妊娠させられる豚たち。知能も高い彼女らが感じる苦痛はいかばかりか。これは、畜産業者だけの問題ではありません。そうした仕方を黙認し、あるいは見ようとさえせず、畜産業の恩恵を受けている、私たち自身の問題なのです。まずは事実を知りましょう。そして、苦痛を共有しましょう。そして、改善を訴えましょう。改善は十分に可能です。もっと広くしたり、平場での飼育に移行したり。むろん、それで万事解決とはいきません。動物倫理はそんなに単純ではありません。でも、少しはよくなります。しかし、それを実行するためだけでも、改善の費用をどう工面するかという実際的な面などで、社会の理解が熟すことがぜひとも必要です。どうか、写真を通してでもよいですから、豚たちの目を見つめてあげてください。その境涯を想像してあげてください。私たちと同じ「いのち」の震えを、そこに感じ取ってください。

東京大学
大学院人文社会系研究科教授
一ノ瀬正樹

東京大学 大学院人文社会系研究科教授 一ノ瀬正樹

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